牧師室へようこそ

日本基督教団 鶴川教会

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい(新約聖書 マタイによる福音書 5:40より)

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更新日 2011-12-14 | 作成日 2009-10-03

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鶴川教会牧師 瀬戸英治日本基督教団 鶴川教会牧師 瀬戸英治
1956生まれ 北海道出身 札幌在住のとき喫茶伝道にてキリスト教と出会う。ルドルフ・カイテン宣教師に導かれ東札幌教会で洗礼を受ける(21才)。文書伝道に従事し28才のとき東京都町田にある日本基督教団の認可神学校である農村伝道神学校に入学する。卒業後、日本基督教団東中野教会伝道師、まぶね教会牧師、川和教会牧師、農村伝道神学校教師を経て、2003年より鶴川教会の牧師となる。家族 愛妻と愛犬 
農村伝道神学校講師、学校法人鶴川学院理事、NPO法人「ろばと野草の会」代表、NPO法人「在日外国人教育相談センター信愛塾」副理事長、教団ジャーナル風編集委員、西東京第二朝鮮学校を支える町田市民の会代表(関わりのあるそれぞれについてはこちらからLinkIcon

キリスト教と裁判(11/12/4)

北村慈郎牧師の免職処分撤回を求める裁判が始まった。キリスト教界では、この世の裁判に訴えることを嫌う。それはパウロの言及によるところが大きい(Ⅰコリ6:1〜6)。しかしここは、パウロがコリントの教会の富める者たちを糾弾していることの文脈であり、富める者が貧しい人を裁判という方法で苦しめていることが問題とされているのである(8)。大体パウロの時代の裁判と現代の裁判制度を同列に論じることこそ問題である。
もちろん公権力である裁判に何でも訴えればいいというものではない。教会が過ちを自ら糺す道を追求する努力をした後に、それができないと判断するとき裁判に訴えることは許されるだろう。しかし今回、裁判という方法を選ばざるを得なかったけれど、気が重たい。それは日本基督教団に自浄能力がないことを世間にさらすことになったからだ。提訴前、北村牧師は教団に提訴することを手紙にし、処分を見直す気があるかと問うた。それに対して石橋教団議長は、処分のことは教師委員会の権限であり、自分にはその権限がないという趣旨の返答をしてきたという。教団を総括する者としての当事者意識が全く欠如している。これでは自浄努力どころか、自己防衛に走りそうで一層暗い気持ちになった。

復旧さえまだまだ(11/10/5)

2日の礼拝では、石巻を中心に被災地支援の活動している吉村誠司さん(神戸ヒューマンシールド代表)の報告を聞いた。注目された地域では、瓦礫が片付けられ、復旧が進んでいるかのようですが、すこし田舎に行くとまだ手つかずのところだらけだそうです。何も手が着いてないところで、今冬を迎えようとしている。仮設住宅は冬使用ではないんで、早急の対策が必要であり、また仮設により孤立化された人のメンタルケアが求められています。吉村さんたちは今、残された古い蔵を利用して、みんなが立ち寄ることのできる食堂を開きたいとそうです。ただ物質的に暖めるのではなく、人のぬくもりことそが真に心と体を温めるのだと思います。
近々、石巻を訪ねたいと思います。

怒ることの大切さ(11/10/2)

不景気で高齢化の中、復興のためとはいえ増税が行われようとしている。本当にそのお金は被災地のために使われるのであろうか? 政権が代わってもこの国は何も変わっていない。もうそろそろ国民は怒ってもいいとおもうのだが、一向にそういう気配は伝わってこない。
怒るというのは、人間としての尊厳が保たれているからできる行為だ。1945年、ヒトラーを暗殺しようとした牧師であったボンヘッファーは「彼(独裁者)は、人間を愚か者であると見なす。すると人間は、じっさい、愚かな者になる。」と言っている。
怒りを現すことは、私たちが愚かな人間ではないことの表明であり、沈黙は悪への追従に等しい。

会津の米は大丈夫!(11/9/25)

新聞に福島・会津産の米すべてから、放射能が検出されなかったという記事が載っていた。鶴川教会は随分前から会津の米を毎月集団で購入している。これは会津板下教会の会堂資金への協力として、板下教会員である農家の堀献一さんから購入しているものだ。いまは会堂資金から運営資金支援になった。堀さんは出荷できるので、ホッとしたといいながら、兎に角悔しいと語っていた。先祖代々営々と築き上げてきたものが、原発事故によって、あっという間に崩壊していく。安全とは、どのような扱いをしても大丈夫なものをいうのではないか。壊れればどうしようもない危険なものを厳しい条件を付けて運用する、これは安全といってはいけない。これは危険ですが、使用方法を厳格に守れば仕えます、と言ってほしい。ともあれ会津のおいしい米を今年もまた食べることができる。神と堀さんに感謝しながら、いただきます。

プロメテウスの火(11/4/20)

不死であったプロメテウスは人類に火を与えた。しかしゼウスは怒り、プロメテウスを山頂に張り付け、生きながらに禿鷹にたべさせたというギリシャ神話があります。なぜゼウスは怒ったのか? 人類は火を制御することで文明を築き上げ、やがて自らを神にしていきます。ゼウスはそれを予見していたかもしれない。火に代表されるように、文明とは危険なものを、利用可能のものにすることによって得られる知的満足の上に成り立っています。原子力は最たるプロメテウスの火かもしれない。人類に致命的な損傷を与えかねない原子力を、科学者たちは自らの人の手のひらに納めようとしているように見えます。多分、このような行為は人類が繁栄を求め続ける限り続くでしょう。しかしこの知的満足の延長線上に人類の幸福はないでしょう。もしかしたらこの誘惑から解放されたところに私たちの幸福があるかもしれにない。

天罰なんかじゃない(11/4/1)

3月11日は、一生忘れてはならない日になりました。誰がこの日を予見しただろうか? 一瞬にして3万人もの人々の命が絶たれたのです。神様はこのとき何を語れというのでしょうか。言葉を発するには、あまりに厳しい状況が続いています。でも決してこれは「天罰」なんかじゃありません。誰かが悪いこと、罪を犯したから起きたものではありません。まして津波で流された人々がそのような人だったと口が裂けても、言ってはならない言葉です。みんな一生懸命に自分の人生を生きてた人々です。この中には天使のような子どもたいも多いと聞きました。ただ言えることは、地球は生きているものだということです。生きている惑星だからこそ、私たちのような生命をはぐくんでこれたのです。旧約聖書のヨブ記という書に苦難にあった主人公が「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1;20)と告白します。私たちは幸いばかりを求めます。しかし自然によって、良いことも、悪いことも与えられる、それが条理だというのです。生きている自然は、自然の営みの中でただ動いているだけに過ぎません。人間またその中で生きていくしかないのです。苦しみが与えられた分、きっとこれから良いことが与えられるに違いないのです。絶望を叫ぶより、希望を見ることが大切だと思うのです。

新しいステンドグラス(10/12/24)

twofish.jpgクリックで拡大  教会にステンドグラスが寄贈されました。残念ながら教会の内側からは見えませんが、そうてつローゼンの前からはよく見えます。題は2匹の魚と五つのパンの奇跡。これはガリラヤ湖畔のタプハにあるビザンチン時代(5c)の古い同名の教会の床に描かれたモザイク画をモチーフにして、ステンドグラス作家の吉田志麻さんが作成したものです。この絵をよく見るとパンが4つしか描かれていません。言い伝えによれば、イエス様がまさにその1個のパンを手に取り、裂かれようとしていいるからだといいます。このステンドグラスが人々の心を癒し、神を証しするものとなるように祈ります。

家に箱舟が浮かぶ(10/10/6)

noaship.JPGクリックで拡大  中庭の池にノアの箱船に浮かんだ。全長50cmのこの箱舟、チャーンと動物たちが乗せられている。船は指導を受けながら中学生が作った代物、また動物たちは幼小科の子どもで努力してもらう。

人の目のおが屑は(10/9/21)

 「人のふり見て、我がふり直せ」ということわざがありますが、聖書にも「兄弟の目のおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マルコ福音書7:1〜6)というたとえ話があります。
 キリスト教も宗教ですが、宗教というものは多かれ少なかれ、人間を超越した何か、いわゆる神とか仏というものを絶対として信じるものです。だから自分はひ弱であっても、無知であっても絶対なるものに従っていけば間違いないと信じているわけです。ところがときとして、自分も絶対であるという倒錯に陥ることがあります。宗教の持つ危険性がここにあります。イエスはそれを「丸太」と言いました。目に丸太、自分自身の存在を越えるもので、すべてが見えなくなっていることに気付くこともできないのに、それなのに人の欠点を指摘する。強烈な宗教批判とも言えるものです。
 神や仏を信じるとは、自分が神や仏の側に立つのではありません。それは人の目の中のおが屑を探すことをやめ、自分の中にある丸太に気付くこうとすることだと私は思っています。
 この頃、カトリックをはじめ、プロテスタント教会やそして私たちの属する日本基督教団でも、金と性的なスキャンダルが頻発しています。そしてその当事者の聖職者の多くは、「カリスマ」的存在であり、教会をそして聖職者(自分自身)を「聖なるもの」「神に選ばれたもの」であることを強調し、信者の悔い改めを強く求める傾向にあります。
 これらはイエスが嫌ったことです。イエスは「いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりさい。」(マタイ福音書20:27)と言っています。この言葉に従いたいと思います。

平和にこだわるわけ(10/8/1)

 聖書を初めて読むと、特に旧約聖書を読むとそこには戦いの連続であることに驚くでしょう。そして「神を信じるもの」には勝利を「神を信じない人」には罰としての敗北が与えられるような物語が沢山見つけるでしょう。
 イエス・キリストを信じるものは誰でも「平和を愛する」ものであるというイメージからすれば、随分かけ離れています。
 ではどこからキリスト教=平和のイメージが生まれたのかといえば、やはりイエス・キリストご自身の言動からだと思います。
 一番は「あなたの敵をも愛しない」(マタイ福音書5:43〜48)にあります。同じく「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をもむけなさい。」(同5:38〜42)です。これらはインド独立の父といわれるマハトマ・ガンジーの無抵抗主義や黒人解放運動の指導者マルティン・ルーサー・キング牧師などの行動を突き動かしたと言われています。
 またイエス・キリストは、ローマにより十字架刑に架けられて行きますが、一切抵抗をしなかった。そればかりか自分を十字架に釘で打ち付けるものにでさえ「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と神に祈っているのです。教会はこのイエス・キリストを「平和の君」(イザヤ書9:5)としてあがめ、その誕生を古来から祝ってきたのです。
 残念ながら教会の歴史は平和の歴史ではありませんでした。教派の争い、権力闘争、そしてなによりキリスト教のみを正しいとして異教徒との戦いを「聖戦」として奨励さえしてきました。キリスト教が国家主義・民族主義と結合するとき、戦争を引き起こしてゆく大きな力となったことも否めない事実です。
 鶴川教会の属する日本キリスト教団は、日本国が戦争を遂行する必要からプロテスタント教会を統合するためにできた教会です。平和を作るどころか、勝利を祈り、戦闘機さえ寄付し、教会員に「あらひとがみ」である天皇を礼拝するよう求めました。この苦い経験から二度と戦争を起こさせない、協力しない、平和的解決を求めていくことを誓ったのです(1967年の戦争責任告白)。
 イエス・キリストを信じるものは、みな平和を作り出す使命を与えられていると思います。たとえその力は微々たるものでも、平和のために祈っているものがある。そのことを大切にしていきたいと思います。

夢ってなんだろう(10/7/11)

 青森・六カ所村の核燃料サイクル施設に初めて行った。下北半島の根本に広がる自然豊かな小川原湖のほとりに巨大な建物が建っていた。周りに何もないためその大きさが実感できない。近くには1つが東京ドームほどもある石油タンクが50機以上あるむつ小川原国家石油備蓄基地が迫ってくる。それはまるで「石油に頼れば、こんなにも沢山のあぶない石油施設が必要になります」と教えているようでもある。核燃料サイクルは、原発で燃やしたウラン燃料からプルトニウムや燃え残しのウランを取り出し、それをまた燃料として利用していく「プレサーマル」という「夢の核燃料サイクル」である。しかしこのために大量の核廃棄物が生じる。そして処理作業の重要なところが手作業のため、作業員の大量被爆が懸念されている。日本はウラン鉱石をほぼ100%輸入しており、その確保は石油より難しいといわれる。この核燃料サイクルに莫大な税金が使われてきたし、そしてこれに加えて、幾ら掛かるかわからないといわれている核融合炉も必要であるという。夢ってなんだろう、と思った。(週報<牧師室より>掲載)

エコを考える(10/5/20)

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」旧約聖書創世記1:31
kingyo.jpg 教会一階の中庭に半円形の池があります。この池に現在10匹ほどの金魚が暮らしています(写真、クリックで拡大)。実はほとんどえさをあげていないのです(虐待だといわないで!)。それでも私がこの教会に着任して6年間、金魚の数も体型もほぼ大体一定しているから不思議です。多分ポンプが24時間回っているので、酸素は十分に供給されていて喪の繁殖が適当にコントロールされているのでしょう。金魚もきっとおいしい藻を十分に食べることができているだと思います。世代も何代かかわっているようですが、私には見分けがつきません。時折小さな金魚がいて気付きます。そう、ここには完全循環型の環境が整っているです。藻だけを食べているせいか、ここの金魚は濃いオレンジ色の体で宝石のように輝いています。神の創造した世界は、人間が邪魔をしない限り完全だったことを、この金魚は私たちに教えているような気がします。ぜひ会いにきてください。

小さき者に(10/3/13)

 ときどき「キリスト教の教えの中心は?」と聞かれることがあります。そんなとき「神を愛し、それと同じように隣人を愛すること」と即座に答えることにしています。これはもちろん聖書の中にあるイエスの言葉そのものです。では「隣人」とは誰か? 自分の隣家の人でも、友達でもない。自分のまわりの弱く、孤独な人々だと、イエスはルカの福音書の「良きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:25〜37)で示しています。
 今年「高校の無償化」が実現しそうです。しかしその過程で「朝鮮学校」を除外するかしないかが問題となっています。除外せよと主張する人たちは、朝鮮学校は拉致事件を起こした北朝鮮の学校であり、そのような学校は認められないと言います。しかし多く人たちは朝鮮学校がいかなるものかさえ知らないのが現状です。
 朝鮮籍=北朝鮮籍だと思ってはいませんか。実は違います。朝鮮は100年前日本の植民地となる前は「大韓帝国」という国でした。戦争が終わり、朝鮮は日本から解放さます。しかし日本に暮らしていた朝鮮の人たちも朝鮮籍にされ、旧に外国人扱いにされ苦労します。やがて朝鮮戦争によって祖国が南北に分断され、日本は南の大韓民国のみと国交を結ぶことになります。これによって主に南出身の人たちが「大韓民国」籍を取得します。しかし北朝鮮とは国交は回復されず、北出身の多くの人は朝鮮籍のままに、そして南の人でも祖国分裂を認めたくない人はあえて朝鮮籍のままにしたといいます。だから朝鮮籍=北朝鮮籍ではありません。そして朝鮮学校=北朝鮮の学校でもありません。学校を支えたきたのは、在日の人たちのからの寄付金です。いまも日本の国からの補助が一切なく、親たちは学校を維持するために高い授業料を払い、先生達は日本の教員から見れば驚くほど低い賃金で働いています。それでもこの学校を守っているのは、民族としての誇りを次世代の人に伝えたちという願いと在日の地域のより所だからにほかありません。
 世界のほとんどの国は、その国で生まれるとその国の国籍を取得できる権利が与えられます。残念ながら日本はそうではありません。ですから2世以降は国民としての権利と義務を負います。しかしもう5世にもなろうとしている在日朝鮮韓国人は何の権利もなく、納税の義務を負っています。この状況の中で今回の朝鮮学校のみを除外しようという動きは、北朝鮮という国と関係のない子ども達をより差別的に扱うという非人道的な行為だと私は思います。
 母国から離れ、他国で権利もなく生きることは大変な苦労です。それをその子ども達に背負わすことは「こどもの権利条約」にも違反しています。いま在日朝鮮韓国人の子どものみならず、ブラジル、中国、バングラデシュ、フィルピン、ベトナムなどの新渡日の外国人の日本で生まれた子どもたちが沢山います。彼らの多くは経済上の問題もあり日本の学校に通っています。しかし言葉や文化の問題から学校についていけず、不登校になる子どもが沢山います。彼らに必要なのはそれぞれの民族としての誇りです。また親の逮捕で言葉もわからない祖国へ強制送還をされる子どももいます。このように権利を奪われ何の力もない子どもたちこそ、私たちの隣人ではないでしょうか?
 「朝鮮学校は反日教育をしている」という誤解があります。けれどもこの子どもたちの教育を受ける機会を日本の政府が奪うのならば、これが一番の反日教育でしょう。彼らは日本を愛しています。私たちも日本の子ども同様に守っていかなかればならない存在なのです。

ヒールが必要?(10/2/18)

 クリスマスから怒涛のように時間が流れ、気付けばもうレントではありあませんか。レントはイースター(復活節)の前の約6週間の期間を指します。クリスマスと違って毎年日にちが移動し、今年のイースターは4月4日になります。なぜなのかは、ウィキペディアに詳しくのっているのでそちらを見てください。とにかくキリスト教会においては、このレントの期間、イエス・キリストが十字架に付けられるという受難の意味を考え、静かに祈るときとされています。
 話は飛びますが、先日横綱朝青龍が引退しました。暴力事件の責任をとってとのことですが、暴力事件そのものの事実は明らかになっていません。彼の言動に問題がなかったとはいいません。しかし「品格」とか「伝統」とか声高に言う人たちが、どれだけそれらを守っているか疑問です。やめるのは事実関係が明らかになってからでもいいと思います。また民主党の小沢一郎にも「やめろ」の大合唱が続いています。これもまだ事実関係がわかっていないのです。「小沢=ヤミ献金」的な図式があるように思えます。朝青龍も小沢一郎も「ヒール」(悪役)にぴったり。彼らをバッシングしても誰も咎めない、そんな雰囲気が気になります。いまの日本社会はきっとこのようなヒールを必要としているのだと思います。無意識のうちに彼らをバッシングすることで、自分たちを苦しめている閉塞感から脱したいと願っているのです。
 残念なことに私たちの日本基督教団においても、同様のことが起こっています。一人の牧師を「規則」に違反したと異端者(悪役)に仕立て、バッシングしています。彼一人を処分したからとて、教会の状況はなんらかわらないことはわかっているにも拘わらずです。本当はその背後にある教会の高齢化や入信者の減少に真剣に向きあうことが大切なのですが・・・。相撲協会も政治も同じでしょう。悪役捜しはさらなる悪役捜しがあるだけなのですが、なぜこの不毛な連鎖に気付かないのでしょうか?
 イエスの十字架荊もそのようなものだったかもしれません。問題の本質を見ず、自分達のフラストレーションのはけ口としてイエスは殺されたのです。そしてそれはまさしく今の私たちと同じです。大切なことは、私たちの目を悪役に向けるのではなく、悪役を必要としているこの社会の病巣に向けられるべきなのです。

合唱に魅せられて(09/12/5)

 音楽全般もそうでしょうが、合唱ほど心を一つにすることが求められるものはないでしょう。今回のチャペルコンサートでの東京新月会(関西学院グリークラブOB)の男性合唱は圧巻でした。今どき30名もの大の男たちが一体となろうとするということがあるでしょうか? 不思議な光景でしたが、実にいいひとときでした。
 合唱といえば、小学生の頃、父が朝ふとんを片付け身支度をするときラジオをつけていました。5級スーパーという自慢のラジオです。そのラジオから大人数の男性コーラスが流れていました。私はその元気で明るい歌声が大好きでした。聞いているだけで、心がウキウキし、一緒に歌いたくなります。その日一日が何かいいことで埋め尽くいるな気がしていました。
 そのコーラスは「ミッチ・ミラー合唱団」だったと思います。1960年代後半に活躍した男性合唱団で、日本ではNHKテレビで日曜日の午後放映されていたそうです。そうすると私のあの記憶はわが家の怠惰な日曜日の遅い朝の風景だったのかもしれません。
 ともかく合唱には人を元気にする力があります。いまあのような合唱は流行っていにないかもしれませんが、ゴスペルは人気があります。思いっきり腹の底から声を出す。そして心を一つにする。きっと気持ちがいいと思います。
 日曜の朝、指揮者ではなく、神に心を向け讃美歌を一緒に歌いませんか。そんなことのために教会に来ても、きっと神さまはOKだと思います。(本人には聞いてませんが・・。)

馬鹿ほどかわいい?(09/11/3)

馬鹿ほどかわいい?という話し
愛犬ぴーたん
 わが家には「ぴーたん」(写真)という8才になる雄のゴールデンリトリバーがいます。そうあの中華料理の皮蛋です。単に私の好物だということでこの名前がつきました。本当だったらもっとかっこいい名前、そうガウディとかアール(これ実際の名前、どちらもチャンピオン犬です)なんてね。ちなみに血統書名はアトムという立派な名前がついているのですが、なぜかぴーたんになってしまいました。飼い主がこの程度ですから、飼い犬もしかり。まったくの落ちこぼれ犬です。町田のドッグスクールに通って、初級コースが終了したときに「もうこれ以上、わたしには教える方法がありません」と言われたときにはさすがに落ち込みました。猫を追いかけてご主人を引き倒したり(私はこれで腰痛になりました)、広い牧場で離すと一目散に牛糞の山に突っ込んだり・・・・。でもどんなに叱っても飼い主を慕ってこられるとすべてを赦したくなってしまいます。飼い主馬鹿ですね。きっと神と人間の関係も近いものがあると思います。旧約聖書を読むときと特にそれを感じます。人に裏切られても裏切られても、幾度となく思い直し、赦す神。そうそう新約聖書にも放蕩息子のたとえ話(ルカ福音書15章)があります。父の財産を遊興三昧で使い果たして帰郷する息子を父がずーと待っているという話しです。帰ってきた息子を自ら走りよって抱きしめ、盛大なパーティを開いて祝う父。ああなんて親馬鹿なのか! でもだめなほど、馬鹿なほどやっぱりかわいいのです。聖書は人はみな罪人といいます。ということは、みな神に愛されている存在だということになります。罪人でよかった。

始めまして(09/10/17)

初めまして
 牧師の瀬戸です。ようやく鶴川教会のホームページを開設しました。あまりよい写真ではありませんが、どうせ「イケ面」ではないのでこれでいいことにします。このコーナーでは聖書のことや教会に関連したことをつれづれなるままに書いていこうと思います。よろしくお願いします。
 さてトップのページにあるように月曜日は教会バザーでした。最近は教会員の高齢化やリサイクルショップや100円ショップの台頭で、バザーを行わない教会も増えているようです。ちょっと寂しいですね。さてバザーはバザール、市場という意味。10年ほど前、中国の西の端、新彊ウイグル自治区のカシュガルという町のシルクロード最大の羊のバザールに行ったことがあります。大きな広場一杯に埋め尽くす羊の数に圧倒されました。そしてその羊たちの出す糞尿が乾燥し、土ほこりとなって一帯を覆い、息を吸い込むことを躊躇するほどでした。しかしそこに生きる人々の顔は生き生きとしていました。貧しいけれど自信と誇りに満ちた顔をしていました。多分2000年前のイエスも同様の光景を見ていたでしょう。特にユダヤ最大の祭りである過越祭には2万頭にも及ぶ羊が犠牲として献げられたといいます。イエスもその埃と臭いの中で堂々としていたんだと思うとイエスのイメージが変わりました。
 現在社会はあまりにもきれいになりすぎです。教会のある住宅地では、秋を楽しもうとしても枯葉さえすぐに片付けられてしまいます。ときどき息が詰まりそうです。汚いものは存在さえゆるれない、そんな圧迫を感じます。人は、影や汚れや傷、過去を引き摺って生きているものです。きっと汗と血と埃にまみれたイエスは、そんな人をしっかりと受け止めてくれるはずです。そして自信に満ちた口調で「そのままでいい。さあ中へはいりないさい」と招き入れてくれるでしょう。
 教会バザーの後、会堂の床は一年で一番、ほこりで汚れていました。でもこれは人々が教会に来てくれた証しです。毎週これほど汚れるほど、人々が神を求めて集まってくれたらと思いました。

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