日本基督教団 鶴川教会

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい(新約聖書 マタイによる福音書 5:40より)

| HOME | 牧師室 |

更新日 2023-12-24 | 作成日 2009-10-03

牧師室へようこそ

鶴川教会牧師 瀬戸英治日本基督教団 鶴川教会牧師 瀬戸英治
1956生まれ 北海道出身 札幌在住のとき喫茶伝道にてキリスト教と出会う。ルドルフ・カイテン宣教師に導かれ東札幌教会で洗礼を受ける(21才)。文書伝道に従事し28才のとき東京都町田にある日本基督教団の認可神学校である農村伝道神学校に入学する。卒業後、日本基督教団東中野教会伝道師、まぶね教会牧師、川和教会牧師、農村伝道神学校教師を経て、2003年より鶴川教会の牧師となる。家族 愛妻と愛犬(2015年死去) 
農村伝道神学校講師、学校法人鶴川学院理事、社会福祉法人「みはらし」理事長、NPO法人「ろばと野草の会」代表、NPO法人「在日外国人教育相談センター信愛塾」副理事長、教団ジャーナル風編集委員、西東京第二朝鮮学校を支える町田市民の会代表(関わりのあるそれぞれについてはこちらからLinkIcon

永遠に至る水

永眠者記念礼拝説教より(11月5日)

  
ヨハネによる福音書 4:1〜15(新168p)

 宗教の存在意義は、現世の苦しみの意味を理解させ、受容させ、その苦しみから解放させることにあると言われる。しかしその宗教自体が教理や慣習によって、人々に苦しみを与えていたならばどうだろうか。
 聖書のその典型的な例がある。このサマリアの女の物語だ。これに聞きたいと思う。
 イエスとの会話によって、イエスの与える水が渇くことのない永遠の命に至る水だと知って、サマリアの女性は「ここにくみに来なくてもいいように」、その水をくださいとイエスに懇願する。水汲みは女性には重労働には違いないが、陽の高い時に汲みに来ていることから考えると、イエスが指摘するように彼女の人生そのものが問題になっていることが想像される。
 5人もの夫があったとは尋常ではないが、律法を犯しているものでもなかっただろう。当時離別は男性の権利だった。彼女は何らかの理由で離縁され、実家に帰えさせられ、家族の長によって再び結婚することを繰り返したのだろう。今の男性とは正式な婚姻関係にないことも彼女の責任ではなかった可能性が高い。それでも村人は彼女を冷たくあしらった。彼女にはこの苦しみは耐えがたいものだったろう。
 人はただ欲望だけで生きているのではない。自分自身が望んだ道ならば、たとえ貧しくても、厳しくてもそれらに耐え、幸せとさえ感じることもできる。肝心なことは、私たちはどこに向かって生きているのか?ということが分かっていることだ。それが見いだせないとき,人は苦しむ。
 イエスは彼女の苦しみの根源が、自分の人生を自分の責任で生きられないことにあると捉えた。そしてそのように強いる慣習や律法、そしてそれらの元である宗教そのものが変わらなければ苦しみは消えないと考えたのだろう。
 イエスは彼女に、サマリア人の神でもユダヤ人の神ではない、すなわち今まで自分たちを苦しめた神でなく、まことの神があることを明らかにし、今ここにそれがあると告げた。
 古代人にとって信じる神を変えるとは、生きていく世界観そのものを転換する途方もない出来事だ。否、現代人にとっても大きなことだろう。神という存在を否定し、経済的繁栄のみが正しいとされる現代社会に私たちは生きている。その中で行き詰まり、苦しんでいる人がどれほど多いことか。その競争から降りるには相当の勇気がいる。しかしそこから降りない限りそれからは解放されないのも事実だ。サマリアの女性はイエスを信じて生きる方向を変え、生き生きと自分を表現した。さて私たちはどうだろうか?
 ヨハネ福音書の記者はこの物語をイエスの宣教の冒頭に位置づけている。そのことは、イエスが何を問題としていたかをこの物語をとおして、読者に示そうとしているのだろう。Ω

同質化より多様化が必要

2017年10月1日 週報より

ああ、日本の政界が保守一色になろうとしている。なんとわが日本基督教団の現状と似ていることか。教団は一歩先にリベラル派を駆逐し、保守派で国会にあたる常議員会を占拠している。しかしその実情は、三役と常任常議員会のトップダウンが強くなり、常議員会での議論は消えた。今の教団から何も出てこない。議論とは意見の異なったものが、相手を理解し、合致的を見つけるための大切なプロセスである.異なったものが集まるからより良い政治があるのだ。

対話以外に道はない。

2017年9月24日 週報より

自分は今、本当に恐怖を感じている。国連総会でのトランプ米国大統領、そしてそれに尻馬に乗っているような安倍首相の演説は北朝鮮と金正恩氏を罵倒するものだった。これは宣戦布告ととられかねない。案の定、金氏は初めての声明でこれを宣戦布告と断定した。もし彼が次の挑発に出たら戦争が起きるだろう。昔、日本も同じように国際的に孤立したとき、一億玉砕を考えたし、あのイラクのサダム・フセインも戦争になるまで抵抗した。安倍首相の「対話ではなく圧力だ」ではなく、彼は「対話」を呼び掛けるべきだった。戦争は双方に甚大な被害を与え、多くの人の命と生活を奪う。このことを唯一の被爆国として、そして敗戦の経験国として語るべきだった。そして対話こそ、唯一の道であることを北朝鮮と国際社会に訴えるべきだったと思う。

今、イエスが生きていれば・・

共謀罪について考える

 テロ等防止法のよって、共謀罪が成立しようとしている。約2000年前、イエスはユダヤ人にとって聖なる所であったエルサレム神殿の庭に入り、門前で商売をしていたものたちの屋台をひっくり返して回った。けが人は出なかった?と思うが、いわばテロ的行為である。もし共謀罪があったならば、イエスだけでなく、イエスの弟子達も捕まったに違いない。そして取り調べで弟子達は「知らなかった」「われわれは共謀していない」・・・・・と主張するだろう。しかし集会でイエスが神殿が壊されることを話していたことなどが暴露され、無罪を主張しながらも弟子達は、イエスと一緒に十字架につけられることとなる。となると、その後のキリスト教はなかったのかも。これが妄想であることを願うのみ。

幻なき民は滅びる

 最近、1990年代後半から顕著になった教団の右傾化と米国のトランプ現象は同じ構造を持っているということに気付いた。1960年代から始まる教団の戦責告白路線は、教会の中の平和運動、差別の克服、地方分権、そして反権力主義を躍進させた。しかし伝統的で保守主義の人たちは、これを「政治的」と反発したが、その勢いに沈黙した。しかしやがて1995年の阪神淡路震災への教団の対応のまずさによって、形成が逆転すると、差別容認、反平和主義、反民主主義的な言動が飛び出すようになり、教勢低下を心配する保守的な人たちがそれらを容認するようになった。教団総会において、1990年代以前はヤジは改革を求める一部の人たちの特権だったが、いまは教会の秩序や霊性を口にする保守的人たちから聞くに堪えないヤジが多く発せられるようになった。クリスチャンとしてどうあるべきかは、忘れさられているかのように。「幻なき民は滅びる(理想を捨てた民に希望はない)」はドロテー・ゼレの言葉。

宗教改革記念日礼拝(10月30日)

「宗教改革と現在」 −なぜ起こったのか?— 
        マタイによる福音書10:26~31(新18p)

 宗教改革はいまから500年前、時のローマ教皇がサン・ピエトロ大聖堂の建築費用捻出のため、発売した贖宥状(しょくゆうじょう注1)の販売は、教皇の世俗化、聖職者の堕落などに疑問を感じていたものの反発に火をつけた。特にドイツのヴィテンベルグ大学の神学教授だったマルティン・ルターが、1517年ヴィテンベルグの教会の扉に95箇条の抗議文を貼付けたことからドイツの宗教改革運動が始まった。
 ルターは「信仰のみ、聖書のみ」を掲げ、教会の伝統や権威を重んじるカトリック教会を批判した。当時、聖書はラテン語のみが認められていて、一般市民は聖書を読むことができなかった。信仰の内容は、聖職から教えられることを信じるしかなかった。ルターは、何を信じるか、何を根拠とするかが大切として「信仰のみ、聖書のみ」を掲げた。
 当時の教会は、聖書はすべてが神の言葉であると教えていた。そして自分たちの都合のよい箇所を取り上げ、自己の考えを正統化していた。ルターは、聖書のすべてが神の言葉ではなく、聖書を聖書たらしめる言葉がある。その言葉によって、すべての信仰の正しさを検証することが大切なのだと言った。これを「キャノン(聖典) イン キャノン」という。
 宗教改革の本質というのは、この「キャノン(聖典) イン キャノン」にあると思う。すべてが聖書を聖書たらしめる言葉(信仰)によって、検証されなければならない。その権利はイエスを信じる全ての人にあるとともに、それはイエスを信じるものの全ての人の義務となる。
 その故にルターは、聖書をドイツ語に訳し、それから今も様々な言語に訳され続けている。
 私たちはその宗教改革に連なる教会として存在している。だから常に聖書を読み、理解し、自らの信仰を刷新していく義務を負っている。もし10年前の自分の信仰と今の信仰がまったく同じならば、それは本当に聖書を読んでいないと等しいことになる。同じ意味において、私たちが宗教改革者の精神に学ぶのは大切なことだが、そこから出来上がった教会の伝統にこだわり続けるのは、真のプロテスタント教会の姿ではないだろう。
 改革し続けることに意味がある。私たちには新たな宗教改革へと進んでいくことが求められている。現実的にいまの国際状況の中で、宗教はどのようなものでなければならないか?を考える必要がある。
 キリスト教の本質に迫り、その事からまた信仰の有り様を見直すこと、そしてまた聖書を読み直すという連環こそ、プロテスタントの中のプロテスタント教会としてあるべき姿であると信じる。流れる水は腐らない。Ω
注1 教会が神に代わって罪を赦し与える(免罪符)というのではなく、犯した罪のつぐない(教会的刑罰)を教会が赦免する権利を与えるお札のこと。            

作られた子どもの貧困 (16/9/11)

信徒の友9月号に、子どもの貧困のことが取り上げられ、各地で教会の取り組む「こども食堂」が紹介されている。子どもの貧困は決して対岸の火ではない。一体どうしてこのような状況になったのだろう? 男女機会均等法(1987年施行)による女性の進出、バブル崩壊後の長引く経済の低迷を受け、企業は非正規雇用中心の体制へ意向するために労働力の流動化政策を求めた。その結果、公務員や一部の大きな企業を除き、正規職員の採用及び賃金も抑制した。これによって男性の給与だけでは家計を賄えなくなり、専業主婦世帯が減り、共働き世帯が急増することとなった。しかしもし夫婦どちらかに問題が生じれば、一挙に貧困に陥る状況になっている。本来は、企業における人件費の増額または税制等による補填があるべきだったのに、夫婦共働きへの優遇税制は見送られ、企業は利益を人件費に回さず、内部留保に走った。この状況はまさに政府の無策が産んだものである。「(教会週報「牧師室より」から)

起きて欲しくなかったことが(16/7/31)

 7月26日未明、津久井湖近くの障がい者施設(津久井やまゆり園)で元施設職員が、入所者19人を殺害、26名に重軽傷を負わせるというかつてない事件が起きた。障がい者の施設を運営するものとして、強い憤りを覚えると共に恐怖を感じた。まだ詳細は明らかでないが、犯人の青年は大麻や違法ドレッグをやっていた可能性が出ている。1月に言動がおかしくなり、2月に自主退職し、措置入院している。人は受け入れがたい問題にぶつかると、それから逃れようとする。しかし逃れることができないときに、自己を正当化し責任を他者に押し付けることがある。彼は障がい者をありのままに受け入れることができず、その自分を受け入れられず、社会正義として障がい者を抹殺するという妄想に逃げ込んだかもしれない。(教会週報「牧師室より」)

米国の差別意識の回復に憂慮(16/7/24)

 今年の3月、米国ノースカロライナ州において、公立施設では出生証明書(日本での戸籍にあたる)と同じ性別のトイレを使用することを義務づけた通称・トイレ法が成立し、性的少数者への差別だとして反対の声が上がっている。しかしこの他にもミシシィピ州で「民間団体や組織、個人の真摯な宗教的信念、道徳的信条を、州政府機関による差別から守るため」法、たとえば「性交渉は結婚した男と女の間でなければならない」という従来の伝統的価値観を養護するもので、性的少数者同士のカップルを差別することだけでなく、未婚で子どもを産んだ女性への差別も合法とされる可能性がある。そしてインディアナ州の性的少数者 への差別を犯して訴えられても「宗教上の理由」を挙げることができるという「宗教の自由回復法」など、差別容認の州法の成立が相次いでいる。これはトランプ現象に見るように、自由、平等を基本とする普遍的価値観の中で、相対的に富と地位が落ちて来た白人達のいらだちが爆発しつつある。彼らはもともと普遍的価値は自分達が持っていたものであり、それを移民や他人種、少数者に分け与えてきたと信じる。これはナチズムそのものだ。普遍的価値は人種や民族、国に与えられたのではなく、神が一人一人の人間が与えてくださったものだ。(教会週報「牧師室より」)

「ああ、アブサロム」

聖霊降後第一主日礼拝(5月22日)
サムエル記下18:24〜19:1 (旧511p)  
 「英雄色を好む」ではないが、ダビデには沢山の嫁、側めがいた(サム下3:2〜5、同5;13〜16)。特にヘブロンで生まれた息子たち6人はすべて母親が違った。これが災いの始まりである。長男のアムノンは母親違いの妹タマルに恋をした。しかし父親と同じように、力ずくで関係を持ってしまった。
 それを知ったダビデは憤るが、惣領息子を失うことを躊躇したのだろう、結局は何もしなかった。これが第一の失態である。
 次男キルアブは名前だけで実際には登場しない。早くに死んだか、王座を争うような自分ではなかったのかもしれない。三男のアブサロムとタマルは同じ母から生まれた兄妹である。彼は、姿もうつくしく、多分人望もある武将だった。まっすぐな気性だったのだろう。兄の仕業がゆるせなかったし、何も裁定を下さない父も許せなかったに違いない。
 アブサロムは父とアムノンの警戒心が緩むまで、2年間も待った。ときにアブサロムは、羊の毛を刈る催しをし、王子すべてを招待し、そこで部下にアムノン暗殺を命じたのである。暗殺後、ダビデから逃れ、母方の祖父母の所に逃げた。
 ダビデはここで第二の失態をする。父の意向を無視し兄アムノンを殺したアブサロムの罪を問わず、逃亡を黙認した。ダビデはアブサロムの心情も分かっていたし、自分の優柔不断がこの暗殺を招いたと自分を責めたのかもしれないが、結局ダビデはまた裁定をくださなかった。
 アブサロムからすれば、父の裁きを受け入れる覚悟があったはずである。しかし3年間放置された。その時間は父ダビデがアムノンの死を受け入れ、アブサロムの許すための時間だったがアブサロムにはあまりに長い時間だったかもしれない。ダビデの腹心ヨアブの努力もあり、アブサロムの帰還が許されたが、エルサレムの場外だった。そしてまた2年。ついにアブサロムの心の中の何かが切れた。ヨアブを通してのアブサロムの訴えにダビデはようやく耳をかし、わが子アブサロムを抱きしめ、口づけして見せたが、時すでに遅し、アブサロムは父ダビデを倒す心は決まった。アブサロムは周到な準備をし、40歳の誕生日に反乱を決行する。これが第三の失態である。許されたと思った期待が憎悪をます結果となったのだ。
 ヨアブの機転によりアブサロムの軍隊へスパイを送り込んでおいたことが功を奏し、ダビデは首の皮一枚で踏みとどまった。まったくの劣勢から反撃に転じ、ついはアブサロムをうつことができた。アブサロムは自慢の髪が木に掛かり、あっけなく戦死する。聖書の箇所はその知らせを受けるダビデの心情をよく表わしている。王としての自分とひとりの父親としての自分。神の正しさと、人であれば誰でも迷い間違うもの、という二つの間で彷徨っているのが、私たちであること。「ああ、アブサロム、アブサロム」のダビデの嘆きは私たちの嘆きである。

ペンテコステに(16/5/15)

elgreco_pentecostes00.jpg先週の5月15日は、ペンテコステでした。
 このお祭りは、もともと農耕の祭りがユダヤにおいて出エジプトに関係づけられて、7週の祭りとして言われたことによります。ペンテコステは50という意味です。7日×7週=49日そしてその次の日で50日ということになります。
さて、聖書では特定数字にこだわる傾向にあります。「聖なる数」です。その代表格が3。キリスト教の神は父、御子、聖霊の三位一体の神と言われています。そして唯一神の1。1と3を足して4もまた、大切な数になります。ちょっと数字あそびに思われるかもしれませんが、7も3と4を足してえらます。これは1週間の長さになりました。また3と4を架ければ12、これはイスラエル12部族、そしてイエスの12弟子となります。
 旧約聖書のレビ記に「ヨベルの年」のことが記されています(25章)。昔、ユダヤでは同じユダヤ人から利息をとってお金を貸すことは禁じられていました。ましてその借金にかたに先祖伝来の土地を取り上げるのはタブーでした。しかし実際は行われていたようで、そのための救済措置がこの「ヨベル」だそうです。この年の始めにはヨベルという角笛を鳴らし、すべての借金、そして借金によって取り上げらた土地や人も返還されなければならいとあります。すならち「解放の年」です。この年は7年×7倍=49年が終わった50年目になります。残念ながらユダヤにおいてこれが実施された記録はないそうです。
 年と日の違いがありますが、同じ考え方ですね。だからペンテコステとは、ヨベルの新訳版と考えることができます。イエスが十字架によって殺され、三っ日目に復活し、弟子たちを励ましました。しかしイエス亡き後を生き生きと生きていくためには、何かが必要でした。ペトロはじめ弟子たちは、イエスの昇天後、熱心に求めて祈ったという言います。それは不安を打ち消す祈りだったかも知れません。ペンテコステで何かが、起こりました。弟子たちがそれまでとは全く違い、突然とイエスを宣べ伝えるようになります。そうペンテコステは「全く新しくされる」日なのです。
 聖霊は過去に捕われ、前に進むことができない私たちを解放し、未来へと前に押し出してくれる力です。ぜひともにお祝いしましょう。Ω

ご無沙汰しました(15/12/19)

IMGP2470.JPGこの牧師室を随分ながい間、休んでしまいました。実は昨年の今ごろに愛犬のぴーたんを天におくりました。12才 歯茎に悪性黒色種ができ、手術ができずインターフェロンも効果がなく衰弱死でした。結局、おむつをしたは最後の日くらい。痛みを訴えることなく、本当に静かに逝きました。死んだ当初は大丈夫だったのですが、次第にしんどくなり、いまもぴーたんに会いたく、思い出すと涙が出てます。いわゆるペットロスです。そんな中、ようやくぴーたんのことをネットで言うことができました。遅くなりましたが、みなさんに良いクリスマスが訪れるよう祈っています。特に愛するものを失った人の上に神さまの恵みと慰めがありますように。

ひとり雪祭り(14/2/28)

IMG_0605.JPG一人雪祭りタイトルだけで十分でしょう。つい雪ダルマを作ってしまうのは北国生まれの習性です。今回は熊のプーさんというところでしゅうか? それにしてもよく降りますね。思わず、ゆきかきスコップを買ってしまいました。

46年ぶりの大雪が2度も(14/2/28)

IMG_0612.JPG首都圏が2週連続で大雪に襲われた。46年ぶりだそうだが、翌週に同じく大雪! 最初の大雪は、雪が土曜日まえ続くとの予報だったので、日曜日礼拝を午後1時に変更しました。40名ばかり集いいました。次の日曜日は、土曜日が雨の予報だったのに午前中は重たい雪、そのおかげで、バスはストップ、会員の中には歩いてこられた方も大勢おられました。写真は2回目の雪の様子です。私のマンションの玄関の様子です。長靴でなければ出て行けない状況でした。教会は屋根の雪が落ちて、中庭の池が埋まり、あわや幼稚園から預り中のコイヤや金魚がつぶれたのではと思いましたが、隙間を見つけて生き延びていました。強いな!

福島・いわき市へ(13/9/22)

iawaki01.jpg教会の研修会で教会員16名と福島県いわき市に行きました。地震、津波、そして原発事故、2年経ってどのようになっている300のか。自分たちの目で見ることが目的でした。塩谷崎近くの海岸沿いの住宅地は津波でほとんどの家が流され、土台のみとなった住宅地には草が腰の高さまでぼうぼうとなっていました。写真は、海岸から50m以上も離れた所の住宅の土台に横たわっている高さが1m、長さが8m以上のコンクリートの固まりです。こんなものがなぜあるのか? 海岸に行くとすぐ分かりました。これは防波堤の上部で津波で流されたものでした。こんな重いものを流してしまう津波の威力に驚いていると、地元の人から「この何トンもあるコンクリートの固まりが渦巻きに乗って、グルグル回って、住宅を跡形もなく壊していった」と聞き、想像もできない自然の力に圧倒されました。いわきも決して放射線量が低いわけではなく(安全基準内)、若い人を中心に戻ってこない人も多いそうです。「原発さえなければ」という言葉をいろんな人から聞きました。まだまだ復興には遠い状態です。私たちの責任は「忘れないこと」・・・・、でも、どうやら政府は忘れたいみたいです。

インドは深かった(13/3/28)

IMGP2688.jpgインドに行ってきました。鶴川教会が支援している「インド三浦後援会」のスタディツアーで、三浦照男宣教師の働きを視察するです。ニューデリーから西へ夜行列車で約8時間。アラハバードという地方都市とその周辺の村々です。多分、普通の観光では行くことのないインドの本当のど田舎の邑。土壁に茅葺きの昔ながらの家が数件、中央の広場を囲むようにして建っています。そこには牛ややぎが飼われていて、人間と一緒に暮らしています。私たちが行くと、村総出で出迎えてくれました。大人の女性たちはみなきれいなサリーで着飾っていて、村の家々とはミスマッチィングしているようですが、食べることより着ることを大切にしているようです。子どもたちが沢山いて、みんな元気でひとなつっこく、目がきらきらしていました。おとなも子どもも何もない生活だけど、私には幸せそうに見えました。(つづく)

突然と重機が!(12/5/9)

uenohara01.jpg町田の市政がおかしい。サッカークラブの町田ゼルビアの支援と称して、野津田運動公園の整備にすでに55億円という税金が投入され、さらに6億円が追加されるという。その中にはメインスタンド(8000人収容)の工事が間に合わないので、2億円をかけ仮設のメディアセンターを建設し、半年後に7千万円で撤去することも含まれている。市議会では議員がこの計画に反対の意見を述べようものなら、恫喝に近い罵声を浴びせられるという。今回の「上の原原っぱ」の駐車場の問題もそうだが、話し合いもせず、言語道断とばかりに力で押し切ろうとするのが、いまの石阪市政だ。わが教団も同じだが・・。

アーモンドの花(12/4/30)

almond.jpg イスラエルでも春(2月下旬)に桜とよく似た花が咲くという記事を読んだことがある。多分アーモンドの花だろう。アーモンドはばら属さくら科の樹木で、図鑑をみればさくらの花とそっくりの花だ。預言者エレミヤの見た“あめんどう”もアーモンドのことで、言葉の語源は「目覚めるもの」を意味するという(口語訳エレミヤ書1:11、新共同訳はアーモンド)。イスラエルでは古くから栽培されていたようで、ヤコブがエジプトのヨセフのもとに息子たちを遣わそうとしたとき、ピスタチオと共にお土産に持たせたという記載がある(創43:11)。2000年前の春、エルサレムに向かったイエスも、このさくらの花(?)を見ていた可能性がある。まさか弟子たちと花見とは、いかなかった思うが、きっとイスラエルの“目覚め”をその花に見ていただろう。

キリスト教と裁判(11/12/4)

北村慈郎牧師の免職処分撤回を求める裁判が始まった。キリスト教界では、この世の裁判に訴えることを嫌う。それはパウロの言及によるところが大きい(Ⅰコリ6:1〜6)。しかしここは、パウロがコリントの教会の富める者たちを糾弾していることの文脈であり、富める者が貧しい人を裁判という方法で苦しめていることが問題とされているのである(8)。大体パウロの時代の裁判と現代の裁判制度を同列に論じることこそ問題である。
もちろん公権力である裁判に何でも訴えればいいというものではない。教会が過ちを自ら糺す道を追求する努力をした後に、それができないと判断するとき裁判に訴えることは許されるだろう。しかし今回、裁判という方法を選ばざるを得なかったけれど、気が重たい。それは日本基督教団に自浄能力がないことを世間にさらすことになったからだ。提訴前、北村牧師は教団に提訴することを手紙にし、処分を見直す気があるかと問うた。それに対して石橋教団議長は、処分のことは教師委員会の権限であり、自分にはその権限がないという趣旨の返答をしてきたという。教団を総括する者としての当事者意識が全く欠如している。これでは自浄努力どころか、自己防衛に走りそうで一層暗い気持ちになった。

キリスト教と裁判(11/12/4)

北村慈郎牧師の免職処分撤回を求める裁判が始まった。キリスト教界では、この世の裁判に訴えることを嫌う。それはパウロの言及によるところが大きい(Ⅰコリ6:1〜6)。しかしここは、パウロがコリントの教会の富める者たちを糾弾していることの文脈であり、富める者が貧しい人を裁判という方法で苦しめていることが問題とされているのである(8)。大体パウロの時代の裁判と現代の裁判制度を同列に論じることこそ問題である。
もちろん公権力である裁判に何でも訴えればいいというものではない。教会が過ちを自ら糺す道を追求する努力をした後に、それができないと判断するとき裁判に訴えることは許されるだろう。しかし今回、裁判という方法を選ばざるを得なかったけれど、気が重たい。それは日本基督教団に自浄能力がないことを世間にさらすことになったからだ。提訴前、北村牧師は教団に提訴することを手紙にし、処分を見直す気があるかと問うた。それに対して石橋教団議長は、処分のことは教師委員会の権限であり、自分にはその権限がないという趣旨の返答をしてきたという。教団を総括する者としての当事者意識が全く欠如している。これでは自浄努力どころか、自己防衛に走りそうで一層暗い気持ちになった。

復旧さえまだまだ(11/10/5)

2日の礼拝では、石巻を中心に被災地支援の活動している吉村誠司さん(神戸ヒューマンシールド代表)の報告を聞いた。注目された地域では、瓦礫が片付けられ、復旧が進んでいるかのようですが、すこし田舎に行くとまだ手つかずのところだらけだそうです。何も手が着いてないところで、今冬を迎えようとしている。仮設住宅は冬使用ではないんで、早急の対策が必要であり、また仮設により孤立化された人のメンタルケアが求められています。吉村さんたちは今、残された古い蔵を利用して、みんなが立ち寄ることのできる食堂を開きたいとそうです。ただ物質的に暖めるのではなく、人のぬくもりことそが真に心と体を温めるのだと思います。
近々、石巻を訪ねたいと思います。

怒ることの大切さ(11/10/2)

不景気で高齢化の中、復興のためとはいえ増税が行われようとしている。本当にそのお金は被災地のために使われるのであろうか? 政権が代わってもこの国は何も変わっていない。もうそろそろ国民は怒ってもいいとおもうのだが、一向にそういう気配は伝わってこない。
怒るというのは、人間としての尊厳が保たれているからできる行為だ。1945年、ヒトラーを暗殺しようとした牧師であったボンヘッファーは「彼(独裁者)は、人間を愚か者であると見なす。すると人間は、じっさい、愚かな者になる。」と言っている。
怒りを現すことは、私たちが愚かな人間ではないことの表明であり、沈黙は悪への追従に等しい。

会津の米は大丈夫!(11/9/25)

新聞に福島・会津産の米すべてから、放射能が検出されなかったという記事が載っていた。鶴川教会は随分前から会津の米を毎月集団で購入している。これは会津板下教会の会堂資金への協力として、板下教会員である農家の堀献一さんから購入しているものだ。いまは会堂資金から運営資金支援になった。堀さんは出荷できるので、ホッとしたといいながら、兎に角悔しいと語っていた。先祖代々営々と築き上げてきたものが、原発事故によって、あっという間に崩壊していく。安全とは、どのような扱いをしても大丈夫なものをいうのではないか。壊れればどうしようもない危険なものを厳しい条件を付けて運用する、これは安全といってはいけない。これは危険ですが、使用方法を厳格に守れば仕えます、と言ってほしい。ともあれ会津のおいしい米を今年もまた食べることができる。神と堀さんに感謝しながら、いただきます。

プロメテウスの火(11/4/20)

不死であったプロメテウスは人類に火を与えた。しかしゼウスは怒り、プロメテウスを山頂に張り付け、生きながらに禿鷹にたべさせたというギリシャ神話があります。なぜゼウスは怒ったのか? 人類は火を制御することで文明を築き上げ、やがて自らを神にしていきます。ゼウスはそれを予見していたかもしれない。火に代表されるように、文明とは危険なものを、利用可能のものにすることによって得られる知的満足の上に成り立っています。原子力は最たるプロメテウスの火かもしれない。人類に致命的な損傷を与えかねない原子力を、科学者たちは自らの人の手のひらに納めようとしているように見えます。多分、このような行為は人類が繁栄を求め続ける限り続くでしょう。しかしこの知的満足の延長線上に人類の幸福はないでしょう。もしかしたらこの誘惑から解放されたところに私たちの幸福があるかもしれにない。

天罰なんかじゃない(11/4/1)

3月11日は、一生忘れてはならない日になりました。誰がこの日を予見しただろうか? 一瞬にして3万人もの人々の命が絶たれたのです。神様はこのとき何を語れというのでしょうか。言葉を発するには、あまりに厳しい状況が続いています。でも決してこれは「天罰」なんかじゃありません。誰かが悪いこと、罪を犯したから起きたものではありません。まして津波で流された人々がそのような人だったと口が裂けても、言ってはならない言葉です。みんな一生懸命に自分の人生を生きてた人々です。この中には天使のような子どもたいも多いと聞きました。ただ言えることは、地球は生きているものだということです。生きている惑星だからこそ、私たちのような生命をはぐくんでこれたのです。旧約聖書のヨブ記という書に苦難にあった主人公が「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1;20)と告白します。私たちは幸いばかりを求めます。しかし自然によって、良いことも、悪いことも与えられる、それが条理だというのです。生きている自然は、自然の営みの中でただ動いているだけに過ぎません。人間またその中で生きていくしかないのです。苦しみが与えられた分、きっとこれから良いことが与えられるに違いないのです。絶望を叫ぶより、希望を見ることが大切だと思うのです。

新しいステンドグラス(10/12/24)

twofish.jpgクリックで拡大  教会にステンドグラスが寄贈されました。残念ながら教会の内側からは見えませんが、そうてつローゼンの前からはよく見えます。題は2匹の魚と五つのパンの奇跡。これはガリラヤ湖畔のタプハにあるビザンチン時代(5c)の古い同名の教会の床に描かれたモザイク画をモチーフにして、ステンドグラス作家の吉田志麻さんが作成したものです。この絵をよく見るとパンが4つしか描かれていません。言い伝えによれば、イエス様がまさにその1個のパンを手に取り、裂かれようとしていいるからだといいます。このステンドグラスが人々の心を癒し、神を証しするものとなるように祈ります。

家に箱舟が浮かぶ(10/10/6)

noaship.JPGクリックで拡大  中庭の池にノアの箱船に浮かんだ。全長50cmのこの箱舟、チャーンと動物たちが乗せられている。船は指導を受けながら中学生が作った代物、また動物たちは幼小科の子どもで努力してもらう。

人の目のおが屑は(10/9/21)

 「人のふり見て、我がふり直せ」ということわざがありますが、聖書にも「兄弟の目のおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」(マルコ福音書7:1〜6)というたとえ話があります。
 キリスト教も宗教ですが、宗教というものは多かれ少なかれ、人間を超越した何か、いわゆる神とか仏というものを絶対として信じるものです。だから自分はひ弱であっても、無知であっても絶対なるものに従っていけば間違いないと信じているわけです。ところがときとして、自分も絶対であるという倒錯に陥ることがあります。宗教の持つ危険性がここにあります。イエスはそれを「丸太」と言いました。目に丸太、自分自身の存在を越えるもので、すべてが見えなくなっていることに気付くこともできないのに、それなのに人の欠点を指摘する。強烈な宗教批判とも言えるものです。
 神や仏を信じるとは、自分が神や仏の側に立つのではありません。それは人の目の中のおが屑を探すことをやめ、自分の中にある丸太に気付くこうとすることだと私は思っています。
 この頃、カトリックをはじめ、プロテスタント教会やそして私たちの属する日本基督教団でも、金と性的なスキャンダルが頻発しています。そしてその当事者の聖職者の多くは、「カリスマ」的存在であり、教会をそして聖職者(自分自身)を「聖なるもの」「神に選ばれたもの」であることを強調し、信者の悔い改めを強く求める傾向にあります。
 これらはイエスが嫌ったことです。イエスは「いちばん上になりたい者は、皆の僕(しもべ)になりさい。」(マタイ福音書20:27)と言っています。この言葉に従いたいと思います。

平和にこだわるわけ(10/8/1)

 聖書を初めて読むと、特に旧約聖書を読むとそこには戦いの連続であることに驚くでしょう。そして「神を信じるもの」には勝利を「神を信じない人」には罰としての敗北が与えられるような物語が沢山見つけるでしょう。
 イエス・キリストを信じるものは誰でも「平和を愛する」ものであるというイメージからすれば、随分かけ離れています。
 ではどこからキリスト教=平和のイメージが生まれたのかといえば、やはりイエス・キリストご自身の言動からだと思います。
 一番は「あなたの敵をも愛しない」(マタイ福音書5:43〜48)にあります。同じく「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をもむけなさい。」(同5:38〜42)です。これらはインド独立の父といわれるマハトマ・ガンジーの無抵抗主義や黒人解放運動の指導者マルティン・ルーサー・キング牧師などの行動を突き動かしたと言われています。
 またイエス・キリストは、ローマにより十字架刑に架けられて行きますが、一切抵抗をしなかった。そればかりか自分を十字架に釘で打ち付けるものにでさえ「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と神に祈っているのです。教会はこのイエス・キリストを「平和の君」(イザヤ書9:5)としてあがめ、その誕生を古来から祝ってきたのです。
 残念ながら教会の歴史は平和の歴史ではありませんでした。教派の争い、権力闘争、そしてなによりキリスト教のみを正しいとして異教徒との戦いを「聖戦」として奨励さえしてきました。キリスト教が国家主義・民族主義と結合するとき、戦争を引き起こしてゆく大きな力となったことも否めない事実です。
 鶴川教会の属する日本キリスト教団は、日本国が戦争を遂行する必要からプロテスタント教会を統合するためにできた教会です。平和を作るどころか、勝利を祈り、戦闘機さえ寄付し、教会員に「あらひとがみ」である天皇を礼拝するよう求めました。この苦い経験から二度と戦争を起こさせない、協力しない、平和的解決を求めていくことを誓ったのです(1967年の戦争責任告白)。
 イエス・キリストを信じるものは、みな平和を作り出す使命を与えられていると思います。たとえその力は微々たるものでも、平和のために祈っているものがある。そのことを大切にしていきたいと思います。

夢ってなんだろう(10/7/11)

 青森・六カ所村の核燃料サイクル施設に初めて行った。下北半島の根本に広がる自然豊かな小川原湖のほとりに巨大な建物が建っていた。周りに何もないためその大きさが実感できない。近くには1つが東京ドームほどもある石油タンクが50機以上あるむつ小川原国家石油備蓄基地が迫ってくる。それはまるで「石油に頼れば、こんなにも沢山のあぶない石油施設が必要になります」と教えているようでもある。核燃料サイクルは、原発で燃やしたウラン燃料からプルトニウムや燃え残しのウランを取り出し、それをまた燃料として利用していく「プレサーマル」という「夢の核燃料サイクル」である。しかしこのために大量の核廃棄物が生じる。そして処理作業の重要なところが手作業のため、作業員の大量被爆が懸念されている。日本はウラン鉱石をほぼ100%輸入しており、その確保は石油より難しいといわれる。この核燃料サイクルに莫大な税金が使われてきたし、そしてこれに加えて、幾ら掛かるかわからないといわれている核融合炉も必要であるという。夢ってなんだろう、と思った。(週報<牧師室より>掲載)

エコを考える(10/5/20)

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」旧約聖書創世記1:31
kingyo.jpg 教会一階の中庭に半円形の池があります。この池に現在10匹ほどの金魚が暮らしています(写真、クリックで拡大)。実はほとんどえさをあげていないのです(虐待だといわないで!)。それでも私がこの教会に着任して6年間、金魚の数も体型もほぼ大体一定しているから不思議です。多分ポンプが24時間回っているので、酸素は十分に供給されていて喪の繁殖が適当にコントロールされているのでしょう。金魚もきっとおいしい藻を十分に食べることができているだと思います。世代も何代かかわっているようですが、私には見分けがつきません。時折小さな金魚がいて気付きます。そう、ここには完全循環型の環境が整っているです。藻だけを食べているせいか、ここの金魚は濃いオレンジ色の体で宝石のように輝いています。神の創造した世界は、人間が邪魔をしない限り完全だったことを、この金魚は私たちに教えているような気がします。ぜひ会いにきてください。

小さき者に(10/3/13)

 ときどき「キリスト教の教えの中心は?」と聞かれることがあります。そんなとき「神を愛し、それと同じように隣人を愛すること」と即座に答えることにしています。これはもちろん聖書の中にあるイエスの言葉そのものです。では「隣人」とは誰か? 自分の隣家の人でも、友達でもない。自分のまわりの弱く、孤独な人々だと、イエスはルカの福音書の「良きサマリヤ人のたとえ」(ルカ10:25〜37)で示しています。
 今年「高校の無償化」が実現しそうです。しかしその過程で「朝鮮学校」を除外するかしないかが問題となっています。除外せよと主張する人たちは、朝鮮学校は拉致事件を起こした北朝鮮の学校であり、そのような学校は認められないと言います。しかし多く人たちは朝鮮学校がいかなるものかさえ知らないのが現状です。
 朝鮮籍=北朝鮮籍だと思ってはいませんか。実は違います。朝鮮は100年前日本の植民地となる前は「大韓帝国」という国でした。戦争が終わり、朝鮮は日本から解放さます。しかし日本に暮らしていた朝鮮の人たちも朝鮮籍にされ、旧に外国人扱いにされ苦労します。やがて朝鮮戦争によって祖国が南北に分断され、日本は南の大韓民国のみと国交を結ぶことになります。これによって主に南出身の人たちが「大韓民国」籍を取得します。しかし北朝鮮とは国交は回復されず、北出身の多くの人は朝鮮籍のままに、そして南の人でも祖国分裂を認めたくない人はあえて朝鮮籍のままにしたといいます。だから朝鮮籍=北朝鮮籍ではありません。そして朝鮮学校=北朝鮮の学校でもありません。学校を支えたきたのは、在日の人たちのからの寄付金です。いまも日本の国からの補助が一切なく、親たちは学校を維持するために高い授業料を払い、先生達は日本の教員から見れば驚くほど低い賃金で働いています。それでもこの学校を守っているのは、民族としての誇りを次世代の人に伝えたちという願いと在日の地域のより所だからにほかありません。
 世界のほとんどの国は、その国で生まれるとその国の国籍を取得できる権利が与えられます。残念ながら日本はそうではありません。ですから2世以降は国民としての権利と義務を負います。しかしもう5世にもなろうとしている在日朝鮮韓国人は何の権利もなく、納税の義務を負っています。この状況の中で今回の朝鮮学校のみを除外しようという動きは、北朝鮮という国と関係のない子ども達をより差別的に扱うという非人道的な行為だと私は思います。
 母国から離れ、他国で権利もなく生きることは大変な苦労です。それをその子ども達に背負わすことは「こどもの権利条約」にも違反しています。いま在日朝鮮韓国人の子どものみならず、ブラジル、中国、バングラデシュ、フィルピン、ベトナムなどの新渡日の外国人の日本で生まれた子どもたちが沢山います。彼らの多くは経済上の問題もあり日本の学校に通っています。しかし言葉や文化の問題から学校についていけず、不登校になる子どもが沢山います。彼らに必要なのはそれぞれの民族としての誇りです。また親の逮捕で言葉もわからない祖国へ強制送還をされる子どももいます。このように権利を奪われ何の力もない子どもたちこそ、私たちの隣人ではないでしょうか?
 「朝鮮学校は反日教育をしている」という誤解があります。けれどもこの子どもたちの教育を受ける機会を日本の政府が奪うのならば、これが一番の反日教育でしょう。彼らは日本を愛しています。私たちも日本の子ども同様に守っていかなかればならない存在なのです。

ヒールが必要?(10/2/18)

 クリスマスから怒涛のように時間が流れ、気付けばもうレントではありあませんか。レントはイースター(復活節)の前の約6週間の期間を指します。クリスマスと違って毎年日にちが移動し、今年のイースターは4月4日になります。なぜなのかは、ウィキペディアに詳しくのっているのでそちらを見てください。とにかくキリスト教会においては、このレントの期間、イエス・キリストが十字架に付けられるという受難の意味を考え、静かに祈るときとされています。
 話は飛びますが、先日横綱朝青龍が引退しました。暴力事件の責任をとってとのことですが、暴力事件そのものの事実は明らかになっていません。彼の言動に問題がなかったとはいいません。しかし「品格」とか「伝統」とか声高に言う人たちが、どれだけそれらを守っているか疑問です。やめるのは事実関係が明らかになってからでもいいと思います。また民主党の小沢一郎にも「やめろ」の大合唱が続いています。これもまだ事実関係がわかっていないのです。「小沢=ヤミ献金」的な図式があるように思えます。朝青龍も小沢一郎も「ヒール」(悪役)にぴったり。彼らをバッシングしても誰も咎めない、そんな雰囲気が気になります。いまの日本社会はきっとこのようなヒールを必要としているのだと思います。無意識のうちに彼らをバッシングすることで、自分たちを苦しめている閉塞感から脱したいと願っているのです。
 残念なことに私たちの日本基督教団においても、同様のことが起こっています。一人の牧師を「規則」に違反したと異端者(悪役)に仕立て、バッシングしています。彼一人を処分したからとて、教会の状況はなんらかわらないことはわかっているにも拘わらずです。本当はその背後にある教会の高齢化や入信者の減少に真剣に向きあうことが大切なのですが・・・。相撲協会も政治も同じでしょう。悪役捜しはさらなる悪役捜しがあるだけなのですが、なぜこの不毛な連鎖に気付かないのでしょうか?
 イエスの十字架荊もそのようなものだったかもしれません。問題の本質を見ず、自分達のフラストレーションのはけ口としてイエスは殺されたのです。そしてそれはまさしく今の私たちと同じです。大切なことは、私たちの目を悪役に向けるのではなく、悪役を必要としているこの社会の病巣に向けられるべきなのです。

合唱に魅せられて(09/12/5)

 音楽全般もそうでしょうが、合唱ほど心を一つにすることが求められるものはないでしょう。今回のチャペルコンサートでの東京新月会(関西学院グリークラブOB)の男性合唱は圧巻でした。今どき30名もの大の男たちが一体となろうとするということがあるでしょうか? 不思議な光景でしたが、実にいいひとときでした。
 合唱といえば、小学生の頃、父が朝ふとんを片付け身支度をするときラジオをつけていました。5級スーパーという自慢のラジオです。そのラジオから大人数の男性コーラスが流れていました。私はその元気で明るい歌声が大好きでした。聞いているだけで、心がウキウキし、一緒に歌いたくなります。その日一日が何かいいことで埋め尽くいるな気がしていました。
 そのコーラスは「ミッチ・ミラー合唱団」だったと思います。1960年代後半に活躍した男性合唱団で、日本ではNHKテレビで日曜日の午後放映されていたそうです。そうすると私のあの記憶はわが家の怠惰な日曜日の遅い朝の風景だったのかもしれません。
 ともかく合唱には人を元気にする力があります。いまあのような合唱は流行っていにないかもしれませんが、ゴスペルは人気があります。思いっきり腹の底から声を出す。そして心を一つにする。きっと気持ちがいいと思います。
 日曜の朝、指揮者ではなく、神に心を向け讃美歌を一緒に歌いませんか。そんなことのために教会に来ても、きっと神さまはOKだと思います。(本人には聞いてませんが・・。)

馬鹿ほどかわいい?(09/11/3)

馬鹿ほどかわいい?という話し
愛犬ぴーたん
 わが家には「ぴーたん」(写真)という8才になる雄のゴールデンリトリバーがいます。そうあの中華料理の皮蛋です。単に私の好物だということでこの名前がつきました。本当だったらもっとかっこいい名前、そうガウディとかアール(これ実際の名前、どちらもチャンピオン犬です)なんてね。ちなみに血統書名はアトムという立派な名前がついているのですが、なぜかぴーたんになってしまいました。飼い主がこの程度ですから、飼い犬もしかり。まったくの落ちこぼれ犬です。町田のドッグスクールに通って、初級コースが終了したときに「もうこれ以上、わたしには教える方法がありません」と言われたときにはさすがに落ち込みました。猫を追いかけてご主人を引き倒したり(私はこれで腰痛になりました)、広い牧場で離すと一目散に牛糞の山に突っ込んだり・・・・。でもどんなに叱っても飼い主を慕ってこられるとすべてを赦したくなってしまいます。飼い主馬鹿ですね。きっと神と人間の関係も近いものがあると思います。旧約聖書を読むときと特にそれを感じます。人に裏切られても裏切られても、幾度となく思い直し、赦す神。そうそう新約聖書にも放蕩息子のたとえ話(ルカ福音書15章)があります。父の財産を遊興三昧で使い果たして帰郷する息子を父がずーと待っているという話しです。帰ってきた息子を自ら走りよって抱きしめ、盛大なパーティを開いて祝う父。ああなんて親馬鹿なのか! でもだめなほど、馬鹿なほどやっぱりかわいいのです。聖書は人はみな罪人といいます。ということは、みな神に愛されている存在だということになります。罪人でよかった。

始めまして(09/10/17)

初めまして
 牧師の瀬戸です。ようやく鶴川教会のホームページを開設しました。あまりよい写真ではありませんが、どうせ「イケ面」ではないのでこれでいいことにします。このコーナーでは聖書のことや教会に関連したことをつれづれなるままに書いていこうと思います。よろしくお願いします。
 さてトップのページにあるように月曜日は教会バザーでした。最近は教会員の高齢化やリサイクルショップや100円ショップの台頭で、バザーを行わない教会も増えているようです。ちょっと寂しいですね。さてバザーはバザール、市場という意味。10年ほど前、中国の西の端、新彊ウイグル自治区のカシュガルという町のシルクロード最大の羊のバザールに行ったことがあります。大きな広場一杯に埋め尽くす羊の数に圧倒されました。そしてその羊たちの出す糞尿が乾燥し、土ほこりとなって一帯を覆い、息を吸い込むことを躊躇するほどでした。しかしそこに生きる人々の顔は生き生きとしていました。貧しいけれど自信と誇りに満ちた顔をしていました。多分2000年前のイエスも同様の光景を見ていたでしょう。特にユダヤ最大の祭りである過越祭には2万頭にも及ぶ羊が犠牲として献げられたといいます。イエスもその埃と臭いの中で堂々としていたんだと思うとイエスのイメージが変わりました。
 現在社会はあまりにもきれいになりすぎです。教会のある住宅地では、秋を楽しもうとしても枯葉さえすぐに片付けられてしまいます。ときどき息が詰まりそうです。汚いものは存在さえゆるれない、そんな圧迫を感じます。人は、影や汚れや傷、過去を引き摺って生きているものです。きっと汗と血と埃にまみれたイエスは、そんな人をしっかりと受け止めてくれるはずです。そして自信に満ちた口調で「そのままでいい。さあ中へはいりないさい」と招き入れてくれるでしょう。
 教会バザーの後、会堂の床は一年で一番、ほこりで汚れていました。でもこれは人々が教会に来てくれた証しです。毎週これほど汚れるほど、人々が神を求めて集まってくれたらと思いました。

<見たいタイトルをクリックしてください>